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学校ってどうなってるの?39 ~【まとめ図解】江戸時代の外圧⇒国家統合体制⇒教育制度

みなさん、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします

「学校ってどうなってるの?」シリーズもいよいよ40回に到達しようとしているわけですが、 「学校ってどうなってるの?22」 [1]での「中間まとめ」以降は、過去の各時代の教育制度について、「外圧⇒社会体制・家族形態⇒教育制度」という観点で、現代にも適用可能なエッセンスを発掘すべく分析を進めてきました。
そして、この度、長い道のりを経て、ようやく“江戸時代編”のまとめに至りました

・・・江戸時代は、260年間もの長きに渡って平和な時代を維持できたわけですが、日本史上初の統一国家として様々な社会制度を導入し、極めて高度な統合体制を布いていたこと、また、高い本源性を保持していたことなどが明らかになり、皆が江戸の魅力に惹かれる理由がわかったような気がします。

まずは図解化してみましたのでご覧ください。

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■外圧⇒国家統合の必要

まず、“外圧”と言った場合、日本(江戸幕府)が国外から受けるものと、国内に作り出したものに分けることができます。

対外的には“鎖国”体制が布かれているわけですが、決して全てを閉ざしていたわけではなく、幕府独占でヨーロッパやアジアと貿易は行っていましたし、多くの書籍(漢籍)を輸入し、国際情勢に関してはかなり詳しく把握していたようです。
幸い直接的な侵略圧力は掛からなかったわけですが、潜在的な外圧下で、独立国家としての国家統合(平定)の確立が、幕府の最大課題であったと思われます。

これを受け、「幕藩体制」という序列統合体制を軸に、幕府から藩への圧力を作り出し、結果として、経済、教育、技術、文化・・・様々な領域での高度化が達成されました。

■国家統合体制

江戸時代の体制と言った際、真っ先に思い浮かぶのが「士農工商」ですが、よく調べてみると、江戸時代は前述の 「幕藩体制」こそが序列統合の中心軸であり、「士農工商」は、統合役たる「武士」と、生産役たる「農工商」を役割分担したような体制であり、「士」と「農工商」の間での序列は曖昧なものであったことがわかります。

そして、この最大の藩とも言える江戸幕府が、服属する諸藩に対して行使した「力」は、「武力」「規範圧力」「法・制度圧力」「経済力」に区分することができそうです。
ここで特筆すべきは、圧倒的な「武力」という背景を持ちながらも、特に4代家綱以降は、いわゆる「文治政治」・・・つまり、武力そのものではなく、(規範)教育や法制度、そして、経済力を最大限使いながら諸藩の統合を行っていたという事実です。(3代家光までを「武断政治」という。文治政治への移行は、武力統合から観念統合への以降と言うこともできる。)( 「学校ってどうなってるの?37」 [3] 参照)

○「規範圧力」・・・朱子学による幕府の正当化を中心とした新たな序列規範形成

初代家康が朱子学を国学と定めた理由は、朱子学の「湯武放伐」(とうぶほうばつ)という考え方が、源氏の流れを汲まない徳川家を征夷大将軍といる体制を正当化するのに都合が良かったからです。
(詳細は「学校ってどうなってるの?24」 [4]参照)

また、下克上も有りの、ある意味曖昧な“武士道”に代る序列規範の確立と共認形成も不可欠であり、その骨格として朱子学(儒教)が選ばれました。
因みに、幕府における教育は「昌平坂学問所」(現在の湯島聖堂)で行われていました。

但し、こうした儒教の流れを汲む朱子学教育は、主に武家において成され、主に寺子屋で行われた庶民教育においては、読み書きの教材として使われるか、あるいは日頃の生活規範としてしか教えられていなかったようです。

○法・制度圧力・・・法度→高札にて公布

武家諸法度や、禁中並公家諸法度、あるいは寺請制度などが有名ですが、江戸時代は様々な法度が制定され、庶民にも伝達されました。庶民への公布は、町や村の辻々に掲げられた高札によって御触れという形で成され、これも寺子屋での読み書き習得の必要性の一つとなったと考えられます。

○経済力・・・市場も貨幣制度も、幕府統制の元、諸藩締め付けの手段として発展

そして、何よりも社会統合上力を発揮したのが、この経済力によるものだと思われます。
700万石の領地、天領直轄、金銀山直轄、独占貿易、貨幣鋳造権などの圧倒的な経済力の差に加え、諸大名に夫役や参勤交代を課すことで経済的に疲弊させる戦略なのですが、兵農分離によって兵士に特化したことで生産手段を持たぬ武士にとって、市場や貨幣経済は不可欠であり、これが江戸時代の市場拡大の主な原動力だったのではないかと思います。( 「学校ってどうなってるの?32」 [5]参照)

もちろん、商人は平安時代頃より徐々に勢力を拡大し(私権闘争の“抜け道”としての市場拡大)、江戸時代も「両替商」や「大名貸し」(=金貸し)として力を持っていたのですが、江戸の時点ではまだ幕府の統制下にあり、基本的には「国家>市場」の力関係にあったと思われます。( 「学校ってどうなってるの?34」 [6]参照)

こうした状況を背景に、藩経済の発展は不可欠であり、市場発展の流れや貨幣制度の浸透を受け、庶民の間でも読み書き算盤の必要が生じ、寺子屋が全国に拡がる主要因となったのではないかと思います。(「学校ってどうなってるの?35」 [7]参照)

■家族制度~武士のみが父系制、庶民は母系制=社会の基盤は共同体

また、こうした長きに渡る社会の安定の基礎であり、みんな課題としての若者の育成や豊かさ実現を支えた基盤は、共同体にあると思います。
江戸の長屋や商家から農村に至るまで、制度として男子相続が定められた武家以外は基本的に母系制であり、従って本源性を色濃く残していたと言えます。( 「学校ってどうなってるの?38」 [8]参照)
結果、庶民における私権意識は極めて低く(=本源的な共認充足が高く)、鎖国によって国内資源にて完結せざるを得ない「サイクル社会」を実現できたのも、この気質があってのことでしょう。

■教育制度

こうした幕府からの圧力を背景に、地域の教育制度は、統合役たる藩と、生産を担う庶民で異なる発展を遂げました。
藩における教育の場は「藩校」であり、朱子学(序列規範)、政治、経済などを中心に教えていました。

これに対し、庶民においては、まず、根本的な集団規範教育は、共同体=「若者組」や「若衆宿」が行い、実学としての読み書き算盤は「寺子屋」が担う。そして、最後の仕上げは丁稚・奉公として現実の仕事圧力を受けて働く中で、厳しくしつけられました。
重要な点は、寺子屋を代表とする当時の教育は、地域の名士によって行われ、お金よりも役割充足を重視していたことから、個人の私権追求というよりも、地域の若者の育成や、地域のみんなの豊かさ追求といった、あくまでも「みんな課題」に応える形で、庶民の力で自発的に広がっていったものと推測されます。
( 「学校ってどうなってるの?30 [9]36 [10]」参照)
結果、当時の世界では最高水準の教育レベルを実現し得たのだと思われます。(私権原理⇒序列体制の欧米では、ごく一部の統合階級のみ教育レベルが高く、識字率も低かった。)

■江戸から明治への転換とは?・・・次回以降の課題

やがて、黒船来航を期に外国からの直接的な外圧が高まる中で遂に江戸時代は終焉を迎え、驚くほど短い期間で国家体制は江戸のそれとは全くことなるもの転換していきます。
そして、教育体制においては、庶民が自ら作った寺子屋は廃止され、国家主導の教育制度が構築されていく・・・この激動の時代については、次回以降の“明治時代編”で本格的に追求していきたいと思います。

明治編もよろしく~ 😛

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