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学校ってどうなってるの?37 ~武力による統合から観念による統合へ

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江戸時代の庶民教育の場である「寺小屋」は、幕末には全国に1万5千以上あったと言われ、その結果、当時の日本人の識字率は江戸で70~80%と、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界一であったと言われています。

こうした民間の自主的な教育の場である「寺小屋」が拡大した背景には、地域=藩経済の発展による読み書き算盤の必要性の高まりがあると思われますが、別の観点として、武力による統合から、観念武力による統合から、観念による統合への転換があると思われます。

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洋の東西を問わず、序列統合された国家においては、当初は武力による掠奪闘争=戦争よって拡大し、統合力を高めるが、周囲の国々を滅ぼし、あるいは従属させることで一定安定期に入ると、今度は武力から宗教や学問、あるいは法・制度による“観念統合”へと移行することで、より高い安定を目指そうとする傾向があります。
(参考「力の原理の限界⇒観念統合の必要~ローマ帝国の事例から~」 [1]

江戸幕府においても、「武断政治」から「文治政治」への転換や、法制度の整備による統合への移行が成されています。

■「武断政治」から「文治政治」へ(以下は、「野沢道生の『日本史ノート』」より)

家光までの3代は、幕府権力の集中と安定をはかるため、武家諸法度をたてに反抗的な大名に改易・減封などの重い処分でのぞむなど、大名弾圧を軸とした武断政治の傾向を強くしていた。この代表例が一国一城令違反で改易された広島の福島正則である。
それに対して、4代家綱からは法律や制度を整備し、社会秩序を保ちつつ幕府の権威を高める文治政治への転換を果たした。
「武断政治」と「文治政治」を何かと問われたら、 「武断政治=武力で圧伏する政治」「文治政治=儒教的徳治主義(学問による理屈)で治める政治」と考えてよい。

既に、 「学校ってどうなってるの24 江戸時代の朱子学って何?時代の圧力構造と学問」 [2] 「学校「学校ってどうなってるの?28 日本の学問のむかし 僧侶と儒教」 [3] 「学校ってどうなってるの29 儒教の普及(武士への浸透)」 [4]で追求されているように、朱子学による幕府の正当化や、教育によるその普及がそれに当たると思います。

■「法度」「御触れ」「高札」

 幕藩体制下において、幕府の「法度」(法令)を庶民に公布する方法は、「高札」(こうさつ)と呼ばれる木板に記し、伝達していました。いわゆる「御触れ」です。
 高札による法伝達の起源は延暦元年(782年)に遡り、全国的な制度として確立は、江戸幕府及び諸藩によるようです。

以下はWikipedia [5]からの引用

高札制度の目的としては、

1.新しい法令を民衆に公示する。

2.民衆に法の趣旨の周知徹底を図る。

3.基本法である事を明示する(違反者は「天下の大罪」であるとして、違反者は死罪などの重い刑に処せられることが多かった)。

4.民衆の遵法精神の涵養を図る。

5.民衆からの告訴(謂わば密告)の奨励(特にキリシタン札(切支丹札)などには高額の賞金が掲げられた)。

6.幕府や大名の存在感の誇示。

などが挙げられる。

主な代表的な高札としては、寛文元年(1661年)の5枚の高札(撰銭、切支丹、火事場、駄賃、雑事)や正徳元年(1711年)の5枚の高札(忠孝、切支丹、火付、駄賃、毒薬)、明治維新とともに新政府から出された五榜の掲示などがある。

高札場(制札場)と庶民教育への利用

幕府は人々の往来の激しい地点や関所や港、大きな橋の袂、更には町や村の入り口や中心部などの目立つ場所に高札場(制札場)と呼ばれる設置場所を設けて、諸藩に対してもこれに倣うように厳しく命じた。これに従って諸藩でも同様の措置を取ると同時に自藩の法令を併せて掲示して自藩の法令の公示に用いた(代表的な高札場としては江戸日本橋、京都三条大橋、大坂高麗橋、金沢橋場町、仙台芭蕉辻などが挙げられる)。

また、宿場においても多く設置され、各宿村間の里程測定の拠点ともされた。このため、移転はもとより、高札の文字が不明になったときでも、領主の許可なくしては墨入れ(高札は墨で書かれていたため、風雨には大変弱かった)もできなかった。その代わりに幕府や諸藩では「高札番」という役職を設けて常時、高札場の整備・管理に務めさせ、高札の修繕や新設にあたらせた。

また、この民衆への周知徹底の為に高札の文面には、一般の法令では使われない簡易な仮名交じり文や仮名文が用いられた。更には当時の幕府は法律に関する出版を厳しく禁じる方針を採っていたにも関らず、高札に掲示された法令に関しては「万民に周知の事」と言う理由で簡単に出版が許されたばかりでなく、高札の文章は寺子屋の書き取りの教科書としても推奨されていた高札の文章は寺子屋の書き取りの教科書としても推奨されていた。

・・・と、実際寺小屋の教科書としても使われていることからも、こうした法による統合が、「読み書き」の習得の必要⇒寺小屋拡大の一要因となってのではないかと思います。

(kota)

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