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学校ってどうなってるの?36 読み書き、算盤するのは何で?

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前稿で、「三貨制度と算盤」について扱いました。また、これまで江戸時代の教育について長きに亘って眺めてもきました。ここで改めて、日本の市場経済の興隆期にあたる江戸時代の教育について俯瞰的にまとめをしてみようと思います。

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学校ってどうなってるの?32http://blog.katei-x.net/blog/2007/11/000392.html#more [1]で、

「また、長きに渡って国外からの軍事的な圧力を受けなかった中、幕府が自ら作り出したこの経済(+軍事)圧力こそが、統治権を与えられた藩という地域社会にとっての外圧であり、この締め付けに適応すべく、武士階級から庶民まで地域が一丸となって農業や経済の振興に努めた・・・その一つの現れが、庶民が自ら作り出した「寺小屋」(地域の名士による。基本的に月謝は必須ではなく、役割充足が活力源)という教育制度なのではないか?と思いました。
もちろん、それを成しえた根底には、日本人の共同体体質があったことは間違いありません。」

と述べましたが、もう少し正確に言うと、

圧力構造としては、
1.統合階級(武家や公家や寺家)には、対幕府という意味で藩体制護持のための統合課題=安定のための秩序圧力や経済的な圧力
2.薩長などの先鋭的な藩では、国家の近代化に向けた討幕運動などの思想運動論も付け加わって、長期安定の影で培われてきた幕藩体制転換の圧力
3.商人や庶民には、戦国時代を通じて形成された安定諸大名という新たな統合階級への私権統合の抜け道としての市場経済、貨幣経済への適応圧力(豪商には私権圧力、一般庶民には生産活動としての適応圧力)

が同時にかかり、そうした圧力の中で、特に江戸や大阪、宿場町、城下町の都市部の庶民に文書、算術が生産活動として必要になってきた時代、ということだろうと思います。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%B5%E5%8A%AB%E8%A8%98 [2]

そして、一般の人々の「教育」は、主に寺子屋で行なわれ、制度発でなく人々の適応欠乏発として都心部を中心に成果を上げたようです。

(以下引用)
「明治以降の日本の教育が、大きな障害もなく短期間に確立された背景には、教育機関として寺子屋が既に普及していたことが挙げられます。開国時のショックに耐え、その後の目覚しい発展を支えたのは教育水準の高さでした。識字率は江戸では1854年から61年で男子が79%、女子が21%。農村の僻地でも20%の人は字を読めました。就学率は1840年から60年の間で、江戸では70~80%の人が寺子屋での学習を経験していました。他方イギリスでは、1838年に大工業都市でも就学率は20~25%でした。トモエそろばん http://www.soroban.com/index_jp.html [3]

一方武士階級は、朱子学などを含む儒学、蘭学、武道などを藩校で学びました。藩校とは、先の寺子屋とは違い藩が定めた制度です。藩の官僚養成のための学校ですが、その後薩摩、長州藩による倒幕、攘夷運動への思想教育を多いに含むものでもあったでしょう。

こうした江戸時代の高度な教育システムは、庶民であれ、武士階級であれ、時代の潮流や圧力にどう適応していくかという「みんなに共通の課題圧力」の認識があったから形成できたのでしょう。一部統合階級に西洋の「金貸し資本主義」的なものも生じてはいますが、まだ人々には個人主義など無く、読み書き算盤も私権というよりは生活のため、という適応圧力によるものだったのでしょう。又藩校では、より大きな統合課題のためとの認識もあったと思います。

こうした気運の直後、浦賀に現れた米国の黒船により、日本は新たな外圧に直面します。薩長を母体とする明治政府は、学制を発布して学校制度を制定します。そこには、目の当りにした近代重商主義国家へ対抗する富国強兵策への意図がありました。そして、そこでの成果がさほどの混乱無く展開できたのも、江戸時代の適応原理による高度な教育の経験があったからだと言えると思います。

  

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