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規範教育の本質(自我の制御⇒規範意識⇒共感充足⇒親和充足)

親和充足の原点

密室家庭発の自己中問題 😡 ですが、2007年11月29日の記事 [1]で、「もっともこれ(普通の家族がいちばん怖いと言える実態)は、伝統や慣行よりも個人の自由を尊重してきた戦後社会の然(しか)るべき成り行き」との状況認識から、『個人の自由を尊重する意識は、自我=エゴを制御できない』という問題が根本にあることが分かります。 😮

では、現代に失われている「自我=エゴを制御するもの」とは何でしょうか?それが、『規範意識』です。そこは、誰もが納得するところだと思いますが、その本質は何か?という点は、多くのひとが未だ見出せていないと思われます。そこで、それに関する考察を紹介します。日々の子育ての参考になりますよ♪

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自我の制御
どうする?⇒規範意識
どうする?⇒共感充足(共感機能)
どうする?⇒ それを土台にした、相手の期待を感じ、期待に応えようとする機能
どうする?⇒ 相手のプラス視(共通感覚、感覚の共有、相手も同じという意識)
どうする?⇒ 母子のスキンシップを原点とする充足機能(親和機能)

      ↓

具体的には、以下になりますね♪
①3歳になるまでのスキンシップ(おっぱいと抱っこ)を十分に与え続けること。
②そして、相手のプラス視(共通感覚、感覚の共有、相手も同じという意識)を呼び起こす言葉を与え続けること。

「自我=エゴ」を制御するもの [2]

問題の焦点は自我=エゴをどう制御できるかにあります。つまり、どうしたら「各個人が全体の利害を考慮に入れ、全体の欲求と自己の欲求が整合する道を選択」できるようになるかにあります。
また個人主義者も「他人の権利や自由を最大限尊重するのが本来の個人主義」と主張しています。
 
我々がまず追求しなければならないのは、この相手(の自由や権利)を尊重する、言葉を変えれば人間のエゴを抑制し他人と調和しようとする主体側に深く内在するものは何であるのか?ではないでしょうか?
仮にそれが明快になればその中味に立脚して、個体どうし(混同するので敢えて個人という言葉は使いません)あるいは全体が調和するヒントが得られるように思います。
 
個人主義擁護派の方も含めて多くの方が、現実の人間が自己中心的でエゴの塊であることを認めておられます。
これがおそらく社会の様々な問題現象を引き起こしていることも直感的に同意できると思います。
だとすればこのエゴを、それこそ綺麗事の理屈でなく、なおかつ強制権力によってでもなく、抑制し調和を図ることが人間には可能なのか?という問題でもあります。
我々人間にその機能が内在しているかどうか、それは何なのか?いわば人間主体をもっと本格的に分析してみようという提起です。 
 
エゴを律するものとして人の目、あるいはお天道さま、あるいは他人を尊重しようとする心、色んな言葉があげられるでしょう。あるいは「人を傷つけてはならない」という意識もそうでしょう。
私はこれらを「規範」あるいは「規範意識」という言葉で括ることが出来るのではないかと思います。(倫理という言葉もありますが規範という言葉の方がやや広い概念なので)
 
つまり、主体に内在する、規範あるいは規範意識が「エゴ」や無軌道に陥ろうとする「自我」を制御しているという関係なのではないかと思います。
 
 他にも成文化されたルールや法もエゴを制御するものの一つですがそれらの土台には、(お天道様という言葉に象徴されるように)、必ずしも明文化されていない、多様な内容を持つ不文律が土台になっています。
 それらも含めて、最も広く括れる言葉としては、「規範」あるいは「規範意識」が今ある言葉の中では最も妥当ではないかと思います。

 規範とは不文律です。認識という言葉を認知機能というところまで拡大したとすれば、認識という言い方も出来ますが、もう少し感情や感覚に関わる言葉として捉える方がいいでしょう。
 そして共通感覚、感覚の共有、相手も同じである(仲間、同朋である)という意識これらが規範意識の土台ではないでしょうか

相手尊重の意識の原点は? [3]

 まず「相手の尊重」の大元には「相手のプラス視」があると考えられます。言葉を代えれば、「相手プラス視」の機能が人間には備わっていると考えて良いでしょう。
 
 さて、この相手のプラス視が形成される土台ですが、発達史的に考えれば、それは乳児期の母子との授乳やスキンシップによる、一体感や充足に原点があると考えられます。(あるいはもっとさかのぼれば胎児期の母胎内での充足も含まれるかもしれない)
 
 つまり皮膚感覚の快充足です。この皮膚感覚の充足は乳児期だけではなく、子供同士のじゃれ合いや、セックスに至るまで幅広く存在しています。また他にも、不安な時人がそばにいるだけで安心感を感じるなど、直接皮膚こそ接していないが、それに類似する感覚は、注意深く考えればごく日常的に散見されるように思います。そこには言葉以前の、かつ狭い意味での自己意識を超えた、相手に対するプラス視が存在します。
 
 このスキンシップの充足を原点とすると思われる、相手プラス視の機能が、人と人が結びつく上での最も根幹部分にあるのではないでしょうか。
 
 この機能をどう呼ぶかですが、適切な言葉は皆さんに委ねます。機能を表すという意味では誰かも使ってましたが、化学用語である、「親和」という言葉(馴染み合い、融合し合うという意味だと思います)が語感から言っても妥当なのかも知れません。生物学でも時折使われているようです。

規範意識の形成の土台は? [4] 

私はエゴを抑制するものとして規範(意識)という機能あるいは言葉を提起しましたが、他にも共感能力、相手との一体感、プラス視、あるいは相手から期待を感じること、そして期待に応える充足感等の様々な現象と機能があげられるでしょう。そしてそれらが人間の主体の内部に存在することまでは確かでしょう。
 
ここで考えてみたいのは、言葉以前の不文律としての規範意識は何を土台にしているのかです。
 
規範意識が人の心の奥底から自ずと湧き上がってくる感情であり、相手のプラス視が人間の相手尊重の最も原点にあるとすれば(これは私の仮説ですが)、それは相手からの期待(を感じる機能と、それに応えることで充足を感じる機能)ではないでしょうか?
 
このことは赤ん坊が、幼児期の子供が母親や家族たちの表情を見ながら、物事や行動の善悪の判断を徐々に積み重ねていくことで、その後の規範意識の土台を作っていくということからの類推です。
 
もちろん規範意識は経験の蓄積によっても形成されるでしょう(経験認識や自然認識を元にした諸規範)。それは大脳の発達した動物から受け継いだ機能(記憶回路)を土台にしています。
 
しかし人間に見られる規範意識はそれとは必ずしも全てが重なるわけではないように思われます。
 
仮に上記の説に立つとすれば、冒頭に記したそれぞれの現象や機能は、母子のスキンシップを原点とする充足機能(取りあえず親和機能と呼びます)
→相手のプラス視
→それを土台にした、相手の期待を感じ、期待に応えようとする機能(規範意識の土台)
という関係となるのではないかと考えられます。(これら全てを共感機能と呼んでもいいかもしれません)

つまり期待に応えようとする意識が、相互に働き合うことで、規範意識の土台が形成され、更にその土台の上で観念化された社会規範を受容していくのではないでしょうか。

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