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学校ってどうなってるの?29 儒教の普及(武士への浸透)

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 儒教の話「学校ってどうなってるの28」がありますが、江戸の藩校での教育内容は、基本的には儒教を基礎にしていたそうです。ただし、庶民の寺子屋の教育内容は、習字と読み書き算盤という記述が多いですね。

 調べてみると、武士に広がった儒学について、面白い記述がありましたので紹介します。

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 「日本人のための憲法原論」(小室直樹氏)からの引用です。 

 幕末の志士たちは、いわゆる尊王思想を持っていた。この尊王思想の原点は「古事記」「日本書紀」にあるのですが、これが一種の神学理論に進化したのは江戸時代に入ってからです。中でも最も功績が大きかったのは、江戸時代初期の儒学者だった山崎闇斎(儒教の説く「王道」が実現されているのは、皇室をいただく日本のみであるという「大発見」をして、尊王思想の原点を作った。)とその弟子たち。
 彼らを総称して「崎門」と呼ぶのですが、この崎門学派によって尊王思想は理論的に完成します。天皇が現人神であること、そして日本が神国であることの神学的証明は、この崎門学派によってなされました。  
 崎門学派の影響は大きく、尊王思想は倒幕の志士だけでなく、倒される側の江戸幕府ですら、その影響から逃げれることは出来なかった。

 「最後の将軍」となった徳川慶喜は、水戸の生まれで、水戸藩は尊王思想の牙城だった。元来、水戸藩は2代目藩主光圀以来、尊王思想に熱心な藩で、のちになると崎門学派の影響を受け、全藩を挙げて尊王思想になってしまった。
 だからこそ、鳥羽伏見の戦いにおいて、官軍側が「錦の御旗」を掲げたとき、「もはやこれまで」と慶喜は江戸に逃げ帰った。あのとき、幕府は大坂城で官軍と戦う準備を整えて、今か今かと待ち構えていた。しかし、相手が薩長ならば戦うけれども、錦の御旗は天皇の象徴。神様とは戦えないと、もう慶喜も抵抗の意志を失った。天皇教信者の慶喜には、現人神と戦うことは出来なかった。

 明治維新の特徴は、何といっても、武士が起した革命なのに、その革命後に武士が自分の特権をすべて捨ててしまった点にあります。廃藩置県に始まって廃刀令に至るまで、明治の新政府は次々と江戸時代に持っていた武士の特権を否定していった。こんな革命が一滴の血を流すことなく完了したのは、古今東西どこにもありません。というのも、尊王思想を信じる人たちにとって倒幕運動とは「神の国」を作るためのものであった。江戸幕府を倒したのは、中世ヨーロッパの領主たちのように自分の既得権を守るためではなかった。すべては、天皇を中心とする新国家を作るためである。したがって、徳川時代までの悪い伝統はすべてぶち壊しても古代から伝わる日本の「正しい伝統」復活すべきであると考えた。つまり、伝統主義を否定した。明治4年に行われた廃藩置県を見て、英国の駐日公使だったパークスはこう言ったと言われています。
「日本の天皇は神である」。それほど、尊王思想を武士たちが信じていたからに他なりません。

 儒学といのは、庶民にとっては、規範の一部なんて位置づけかもしれませんが、統合階級にとっては集団課題の大きな拠り所になっていたのでは無いでしょうか。

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