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学校ってどうなってるの?32~江戸の教育制度の背景に市場拡大あり

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江戸時代の主な教育制度といえば、武士階級の「藩校」や、庶民の「寺小屋」です。
その教育内容を調べてみると、後期「藩校」においては、財政難に対応すべく政治や経済に関する教育が行われ、「寺小屋」においても主に生産や商取引に必要な「読み書き・算盤」が教えられていたようですが、その背景には、江戸幕府主導の“統治システムとしての市場”の発展~拡大があったと思われます。

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■「兵農分離」が消費階級としての「武士」と、「市場」を作り出した

まず、江戸の市場システムの起源は、戦国時代の「兵農分離」にあるようです。

以下は「Yahoo!知恵袋」 [1]からの引用です。

中世以前の兵士は普段は農耕を行い、戦があれば武装して城に駆けつけるというスタイルでした。つまり戦を行う兵と農耕に従事して生産活動を支える農民が同じだったために、必然的に農閑期にしか戦ができないことになります。そうした点を克服するために、例えば織田政権などは農民の次男・三男以下を集めて言わば常備軍を作り、季節に関係なく戦が出来るようにしました。これが兵農分離の始まりでした。

関が原以降、徳川政権は実に巧妙に兵農分離を進めていきます。武士は農村から城下町に集められ、それにともなって武士に武具や生活用品を供給している職人や商人も城下町に移住しました。生産者と消費者が分断されたわけです。これは戦国時代の戦乱の担い手(言い換えれば爆弾)である武士を武士階級として隔離して幕府の統制下におくと共に、農民を生産だけに従事させるためでした。江戸幕府初期の施政は、再び戦乱の世に逆戻りさせないための制度作りにウェイトが置かれていました。

初期の市場の代表例として知られる織田信長による「楽市楽座」の背景には、こうした戦に専任する武士=消費階級」の登場という必然性があったということですね。

■江戸幕府~「経済」による大名統制

以下は「経済からみた江戸時代」 [2]からの引用です。

5.徳川300年を支えた流通構造

1.近世藩域経済圏の成立へ

(2)関ヶ原の戦い

 教科書では、豊臣恩顧の大名は所領を削減され、家康の軍事的優位が明白となり、征夷大将軍の就任につながったとしか教科書には書かれていません。
 経済的に見た場合、これは全国の3分の1に当たる600万石を自由にできたと言うことで、藩経済を人工的に作るには絶好のチャンスであったといえます。
 もちろん、主眼は譜代大名を東海道筋等に配置し、外様大名を地方へ配置するなどの政策ですが、それとともに要地は抜け目なく天領とし、直轄にしています。

(3)一国一城令

 一国一城令自体はよく言われているように大名が居城以外のほとんどの城を破壊することで、軍事的拠点を破壊し、大名の反抗力を弱める政策といえます。
 これを西国に特に強く指導している面からも軍事目的であることは間違いありません。

 一方でこの当時、関ヶ原で東軍に味方した大名のうち東北などでは大名と家臣の関係は主従関係というより盟主という考え方が未だ残っていました。
 実際万石以上の領土と城を持つ重臣も存在していたのです。

 こうした場合、経済的には大名と重臣は独立しているといえます。
 その重臣は自身で城下町を抱え、一つの経済圏を築いているというわけです。

 しかし、一国一城令により、軍事的拠点が消された以上、重臣をその地に置いておく意味はありません。
 また、大名は城下町において、家臣の城下町集住のための屋敷地授与や身分による居住地域の整理等をすすめる一方で、城下町に住む商人には地子銭(土地代)を免除するなど、藩の中心としての城下町のまちづくりを行いました。
 その結果、やがて重臣の旧城下町は一つの小市場と化し、経済圏は大名城下町に集約されていくこととなりました。

 こうして藩内は最大市場「城下町」を中心とした経済圏 へと進展していくことになるのです。
※小藩については、その城下町そのものが小市場にとどまるものももちろん存在しました。

2.経済力削減政策

 大名が軍事的に屈服したとしても十分な経済力を有する場合は中央勢力に対し独立が可能になります。軍事力により優位を築いたとしても、室町幕府や豊臣政権の例を見るまでもなく、その政権の安定性は低いわけです。
 よって幕府は大名の経済力を奪うことにも力を注ぎました。

(1)金銀山直轄

 大名が金銀山を有している場合、金銀が貨幣である以上、貨幣を自由に入手できるということであり、中央の経済圏に頼らずとも自給自足が可能になります。
 またその分中央政府の財政基盤は相対的に弱いということでもあります。

 豊臣秀吉はそのことを当然承知しており、全国の主立った金銀山を直轄としました。
 家康も関ヶ原の勝利という千載一遇のチャンスを生かし、金銀山を直轄とするとともに、大久保長安を登用し、さらなる生産量の向上を図りました。

 金銀山直轄は領内に金銀山を有する大名の経済的自立を阻止するとともに、幕府の財政基盤を確立するために大きな役割を果たしたのです。

 大名は領内で生産できない物資を入手するためには貨幣を使用するしかありません。ですから採掘により直接貨幣が入手できない以上、自らの領内で生産したものを「領外」で販売することが必要になるのです。
もっとも、生活物資をそれほど藩の外から入手する必要性が少なければ、それほど大きな市場を領外に求める必要はありませんでした。

(2)夫役

 夫役とは、大名に対し労働力とその費用を出させて、土木工事などを行わせるものです。

 あまり知られていませんが、江戸の町づくりや川の付け替え工事と言った大土木工事は大名たちの手によってなされました。
※ちなみに、昔は日比谷は海で、溜池はその名の通り池でした。

 さらに彦根城をはじめとする幕権維持のために必要な様々な城郭の新築・改築も夫役によって行われていました。

 関ヶ原の直後だけに、徳川家への忠誠を示すという観点、他大名の手前見栄を張らなければならないなどから必要以上に費用を必要としたため、大名たちは経済的に大きなダメージを受けることになります。

 これは豊臣氏も例外ではなく、豊臣氏の財力を恐れた家康は寺社の復興などの名目で蓄財していた秀吉の遺産を使用させ、経済力を削り取っていったのです。

(3)鎖国(貿易独占)

 鎖国については、宗教的要因で語られることがほとんどです。曰く「キリシタンの進入防止のため」。

 しかし、経済的に見た場合、鎖国は貿易による貨幣の入手を原則として禁止するという意味を持っていました。
 貿易というのは非常にうまみを持っており、金銀の入手はおろか国内で多額で取り引きされる珍品の入手も可能にします。

 幕府としては”無用な”貿易を大名に行わせないことにより、大名の貿易による収入を途絶するという意味を持っていましたのです。

 これにより、大名は貨幣を入手するためには自らの領内で生産したものを「国内」で販売することが必要になるのです。
※ちなみに現実的には30年代から老中奉書を要するなど、鎖国完成以前から経済的には事実上の鎖国状態でした

(4)参覲交代

 参覲(江戸に出て将軍に挨拶すること。「覲」はお目見えの意味)自体は、関ヶ原直後からでしたが、実は発想自体はこれも豊臣秀吉が最初で、諸大名に上洛を促し、妻子を人質として在坂させていました。

 当初(1620年頃まで)は幕府は参覲を促進するために、参覲した大名には在府料や邸宅の授与、夫役の半分を免除するなど特典を与えたりしました。大名が江戸にいるということはすなわち反乱を起こせないということでもあるわけですから。

 一方で豊臣氏滅亡以降も大名統制の一環として改易・転封政策が進められたこともあり、大名としても幕閣の情報入手と参覲によるご機嫌伺いは重要なことと認識され、結局寛永12(1635)年の武家諸法度で原則1年おきの江戸滞在が義務づけられました。
 教科書ではこれにより大名統制を強化したとされています。

 しかし、この政策の最大の効果はやはり経済的なものでしょう。

 参覲交代は1年領国、1年在府ということですから、旅費もさることながら大量の生活物資を江戸において必要とするとともに、江戸と国元に組織を二つ維持しなければならないなど、様々な経済的出費を強いるものです。

 基本的に旅費及び江戸の生活においては基本的に貨幣を使用するしかありません。

 その結果、幕府の公認貨幣の入手が必要となり、自給自足は不可能となり、藩域経済圏は幕府の経済体制に下に従属するしかなくなるのです。

4.まとめ

 豊臣秀吉の遺産を継承し、さらに拡充することにより、江戸幕府は「旗本八万騎」を背景に軍事的・経済的両面で大名統制を進めていきました。

 しかし、大名が完全に身動きがとれなくなるのやはり経済的に押さえつけられてからです。
 軍事力は経済力ですから。

 この点は、様々な要因はあるにせよ幕末に参覲交代が事実上消滅し、対外貿易が行われたとたんにたちまち幕府が崩壊へ向かったことが物語っています。

 いずれにせよ幕府を中心とした幕藩体制的流通機構を確立したことで、その後200年の平和な時代が訪れたということになるのです。

 教科書や小説では武力が重視されますが、近世を形作った豊臣秀吉、徳川家康、さらには徳川幕閣の経済的有能さはもっと高く評価されるべきだと思います。

上記、経済的視点だけでなく、朱子学導入による幕府の正統化といった教育面もふくめ、江戸時代の国内統合システムの巧みさには驚かされるばかりです・・・世代を超えて260年も体制を維持できたのは、こうしたシステムとの完成度の高さが、初期段階において既に実現されていたからだと思います。

特に注目すべきは、日本の中世~近世に至る市場の発達は、欧米のような一部の「金貸し」と国家加担による私権拡大が動因ではなく、国内の社会統合のためのシステムの一翼として作り出されたのではないか?ということです。

また、長きに渡って国外からの軍事的な圧力を受けなかった中、幕府が自ら作り出したこの経済(+軍事)圧力こそが、統治権を与えられた藩という地域社会にとっての外圧であり、この締め付けに適応すべく、武士階級から庶民まで地域が一丸となって農業や経済の振興に努めた・・・その一つの現れが、庶民が自ら作り出した「寺小屋」(地域の名士による。基本的に月謝は必須ではなく、役割充足が活力源)という教育制度なのではないか?と思いました。
もちろん、それを成しえた根底には、日本人の共同体体質があったことは間違いありません。

これは、西洋の力の序列原理に基づく極端な格差社会とは正反対であり、こうした「地域のため、皆のため」の教育思想によって、識字率の高さをふくめ、当時の世界においては世界最高レベルの教育水準(幕末の江戸の就学率70~86%)→市場の発達が実現できたのではないかと思います。(地域の課題と個人の課題が上手く一致)

こうした傾向は、近年まで続いていたと思われますが、戦後の「個人主義」教育の結果、学力は「自分」のため、私権追求のために摩り替ってしまった・・・これが、最近の学力低下の根底的な要因ではないでしょうか?

(kota)

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