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学校ってどうなってるの?28 日本の学門のむかし 僧侶と儒教

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「この寺請制度が、寺に村の住人を収束させ、寺中心に村落がまとまり、かつての寺の教育制度と社会的、経済的な要請や藩・村全体の社会適応のための教育の要請や奉公のための教育要請があいまって、寺という地域コミュニティーから、僧侶などの知識階級が、読み・書き・算盤を教え始めたというのが、寺子屋の発祥の理由ではないか?と思われます。」

http://blog.katei-x.net/blog/2007/10/000367.html#comments [1]

前回、寺子屋について記事にしましたが、そもそも僧侶といえば仏教の人ですが、仏教の人が寺子屋で何を教えていたのでしょうか?江戸時代の国学としての儒教(儒学)と仏教、当時の日本人の学門や教育はどうであったのかを押えるために、儒教、仏教とは何ぞやというところを調べてみました。

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「儒(じゅ)の起源については(略)特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。そこには死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)が関係してくる。そこで、東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムを儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子であると主張している。

春秋時代(紀元前770年 – 紀元前403年)孔子(紀元前551年‐紀元前479年)(略)の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。
(略)
前漢(紀元前202年 – 8年)
漢に再び中国は統一されたが、(略)儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは前漢末から後漢初にかけてとするのが一般的である。ともかく五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占めるようになり、丞相など儒者が独占する状態になる。」(以上Wikipedia「儒教」)

「『(試験)科目による選挙』を表す(現在の選挙とやや意味は異なり『選抜』に相当するが、優秀な人材を選ぶ手段という点では同じ)。基本的に身分その他がどのような者でも、受験を通じて学識が認められれば官僚として採用した。しかし、試験の競争率は熾烈を極めた。時代によって異なるが、約3000倍とも言われている。最終合格者の平均年齢も、時代によって異なるが、約36歳と言われている。試験の内容は、時代ごとに変化があるが、儒教的な素養を問うものであった。」(以上Wikipedia「科挙」)

一方、仏教は紀元前5世紀頃インドに起こり、紀元前1世紀頃に中国に伝わりました。前述の様に当時の中国では儒家思想が国家の学門として大成していたようです。仏教は仏(仏陀=釈迦)の教え、道を説き、涅槃=無我の境地を求めて悟りを開き、苦からの解脱を目指します。日本書紀によれば、日本への仏教伝来は552年に百済の聖明王から仏像を送られたときとされていますが、その際仏教を信仰の対象とするかが議論され、神道勢力はこれに反対したとも言われています。

更に神道は、日本固有の民俗信仰で、祖先崇拝が強く「八百万の神」というように多神教です。しかし、その一部は天皇の正統性を補完したり、江戸時代末期の倒幕運動による王政復古以降、国家が支援する国家宗教の側面もあります。

仏教伝来以降、日本では仏教、儒教、神道がそ並行して存在し、人々の思想や精神に影響を与えてきたでしょう。中でも儒教は儒学とも言われるとおり、学問的な性格を強めていますが、これら三つの思想の間には常に一致、分離の議論(というか、異なるものを統合しようとする試みと失敗)が繰り返され、特に仏儒の間は中国の僧侶にして既に合一的で、その後の日本の仏僧も同様に仏儒の合一性を有していたと言えるでしょう。例えば寺子屋で教科書とされた庭訓往来の作者である玄恵(南北朝時代)は、天台宗の僧侶でありながら儒教家でもありました。

これらの事情をもう少し詳述すると、ヤマト王権で始めて国家体制を整えつつあった日本は、中国への朝貢を初め、中国を先進国として仰ぐ気風に満ちていました。国家を治める基本法も中国の「律令」に求め、奈良時代に大宝律令を制定します。当時の日本の統治者は、現在につながる天皇家の祖先である人々ですが、神道による祭事や信仰を持ちつつ、大陸の先進国の思想、制度を学び取り入れる心境であったろうと思われます。そうした中渡来した仏教僧は、新たに仏教への帰依を日本人に説いて廻ります。そのときの仏教僧は、既に仏儒の合一性を帯びており、日本へもたらされた仏教も同じように儒教と合一的なものだったでしょう。

彼らの言葉に儒教的なものが含まれる可能性は大いにあったといえますが、では実際に寺子屋で教えていたものは何だったのでしょうか?(つづく)

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