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【家庭が密室化したのはなんで?】 核家族形成期…集団就職時代の裏表

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[ALWAY’S 3丁目の夕日」がブームですね。

郷愁に誘われて、目頭を熱くしながら見ている人も多いようです。

集団就職でたくさんの若者が都会に出てきて、苦労を重ねながらみんな一生懸命に生きていた時代
…やがて、社会は豊かになり、いまや密室家庭が引き起こす問題があちこちで出始めていますが、
そのさきがけになった核家族を生み出していった世代の、当時の意識を探ってみました。

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集団就職列車は1954年(昭和29年)に運行開始され、1975年(昭和50年)に運行終了されるまでの21年間に渡って就職者を送り続けた。(リンク [1]

高い求人倍率を背景に「金の卵」ともてはやされたようですが、実際の就業環境は中小零細企業での単純労働が大半で、雇用環境や就業環境は劣悪で離職者も多かったようです。
初期の頃は、家へ仕送りをするために、泣く泣く都会へ出て行った子供たちが大半だったのです。

着慣れた学生服やセーラー服に、就職先から支給された支度金で買ったばかりのコートをはおり、ボストンバックひとつをさげて、知らない土地に向う不安と、少しばかりの希望の入交じった顔で列車に乗込む。見送る親たちでごった返すホームは、「風邪ひくなよ」「向うは人や車が多いからな気ィつけろ」などの言葉を窓越しにかわしながら、涙、涙の別れのシーンが毎年続いた。 上野駅に着くと、店の親方や工場の社長が優しく出迎えてくれる。仲間達がそれぞれの就職先に別れていくと一抹の寂しさがこみ上げてくるが、初日は雇主に連れられての東京見物、憧れの街はビル群と人と車の波。見るものすべてが驚きだった。そして田舎ではめったに口にすることはなかったトンカツやソフトクリームをご馳走になり、ようやく心も落着き、楽しい一日は過ぎていく。だが、翌日からは試練の日々が待っているのだった。

 雇用者側はあの手この手で人員確保に走り回る。なにしろ彼等は安い賃金で真面目に働く貴重な労働力なのである。「金の卵」は雇用者側にとってまさに金を生んでくれる卵だったのだ。事前に送金する就職支度金の金額を競ったり、定時制高校へ通わせることを条件にしたりと、勧誘の仕方はさまざまだが、実際には約束を守らない事業所もかなりあった。
 学校の就職担当の先生も実態を把握できていなかったケースもある。就職した生徒から「約束が違う」と手紙で知らされてあわてて上京してみると、定時制高校どころか、給与体系は日給月給、残業手当もつかない、有給休暇もないなどの事態が明らかに、だが大きな時代のうねりのなかでは、個々のトラブルも飲み込んで時間は進んでいった。

 地方なまりをバカにされ、なれない仕事と知らない街での寂しさの中で、少ない給料の中から半分を田舎に仕送りをする、それでも彼等にとっては働ける事が重要だった。それに、毎年、毎年、同じ境遇の若者が全国から何十万人も東京を目指していたのだから、時代を共有しているという目に見えない連帯感と、自分一人ではないという安心感を心の奥底に秘めて頑張ったのだ。やがて、しっかりと東京の土地に根をはり始めた彼等は彼等なりの居場所を見つけだす。それは、働く仲間達のサークル「若い根っこの会」であり「歌声運動」だったりした。

   ……以上の引用先(リンク [2])……

一方、社会全体が豊になり始めると、都会は若者たちの憧れの地へと転換していった。
そして、都会へ集まった多くの若者たちによる「若者文化」が花開いた

戦後の混乱から10年で劇的な復興を遂げた日本。明るい希望に満ちた新しい時代として昭和30年代は始まりました。そんな時代の日本を象徴したのが東京です。活気あふれる街や交通網の発達など、当時の東京は、地方に住む人たちにとって憧れであり、同時に一旗揚げる場でもありました。もちろん、集団就職者にとって現実は明るいものばかりではありませんでした。しかし、変わりゆく街で、多くの若者が、新しい時代の到来を共有しているという連帯感をもって暮らしていました

昭和30年代には、時代の変化を象徴するかのような国家的行事がありました。皇太子のご成婚とオリンピックの開催です。昭和33年に皇太子と正田美智子さんのご成婚が発表され、日本中では「ミッチーブーム」に沸き起こりました。街はお祝いムードとなり、さまざまなご成婚記念の商品が発売されました。また昭和34年4月に行われたご成婚のパレードを家で見ようとしたことが、テレビが一般にも普及するきっかけにもなりました。
そして東京オリンピック。昭和39年に行われた第18回オリンピック東京大会は、日本の戦後復興を世界にアピールする場でもありました。それは、東海道新幹線、首都高速道路、モノレール、地下鉄といった“開発”の原動力にもなったのです。

   ……以上の引用先(リンク [3])……

 さて、こうした若者たちは、一部の学生を別とすれば、すべて働いていた。しかしまだその生活は貧しく、多くの者は住み込みか寮生活をしていた。部屋にはラジオ以外、大した家財もない。洗濯機も、掃除機も、冷蔵庫も、テレビもない。もちろんマイカーを持つ者などない。つまり、若くて貧しい独身の労働者が大量に存在していたのだ。
 この若者たちが、いずれ結婚し、子供を産み、2DKの団地を求め、さらに郊外にマイホームを求める。その過程で、家電を買いそろえ、家具を買い、マイカーを買う。それによって企業は売上を伸ばし、社員の給料が上がり、社員はまた新しい物を買う。これこそが高度成長の魔法のような好循環のからくりだった
 吉川洋東大経済学部教授も、人口増加率や労働力人口の増加率よりも、世帯数の増加率や三大都市圏への転入超過人口のほうが経済成長率と密接な関係を持つとかねてより指摘している。つまり、若くて「貧しい」「独身」の労働者が、「豊かな」「家庭」を持つ中流階級に上昇していくことこそが、高度経済成長を推進する力となったのである。

   ……以上の引用先(リンク [4])……

団塊の世代も一様ではなく、集団就職で都会に出てきた人たちがたくさん居ました。
貧しさゆえに泣く泣く都会に出てきて一生懸命に働き、田舎に仕送りをしていた彼らも、やがて都会に居場所を見つけて、結婚し、家庭を持ちはじめ、核家族が彼らの世代の典型的な家庭の姿になってゆきました。

…ここまではまさに、ALWAY’S三丁目の夕日に描かれている世界。
一家を支えるお父さんは、家族みんなから信頼され、その期待を一身に受けて男たちは懸命に働きました。もちろん、家庭では、お母さんも働きながら家事も育児も懸命にこなしていました。

そんな家族も社会が豊かになってゆくにつれて、様変わりしてゆきました……
……以降、sodanさんに続く

by わっと

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