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学校ってどうなってるの24 江戸時代の朱子学って何?時代の圧力構造と学門

Posted By saito On 2007年10月20日 @ 10:26 PM In 教育改革の本質とは? | 1 Comment

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これからの教育を考えるために近現代の社会の圧力構造と集団課題、教育を探るシリーズの、今回は江戸時代編でテーマは朱子学です。これに着目した理由は、徳川幕府が国学に指定していた、朱子学とは儒教の一派で日本の規範教育にも近いものがありそう、といった所です。さて実際は・・・

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日本の統合階級(平たく言えば天皇家とその縁の人々から戦国大名と呼ばれる武士階級)以外の人々に学問が広まり始めるのは、250年の安定政権を誇った徳川江戸幕府の時代です。中期には藩校が、後期には一般庶民も通う寺子屋が盛んになります。又幕府は家康をして儒教学者林羅山を重用し、羅山は後に幕府直轄の学問所となる昌平坂学問所を幕府開設の30年後に開設しています。こうして儒学は、幕府の学門所や藩校等、武士階級の学門として定着していきますが、なぜ儒学(特に朱子学は)江戸時代に武士階級が好んで学ぶ学問となったのでしょうか?(朱子学とは儒教の一派で大陸の学問です。儒学とは仁、義、礼、智、信という五常の徳性を拡充して父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五輪関係を維持することを教えます。)

何故家康は朱子学を国学としたのか?

秀吉の家臣であった家康は、秀吉の死後拮抗する戦国大名が東西に分かれて派遣を争う関が原に勝利します。結果として豊臣家は衰退し、続く大阪冬、夏の陣で家康は、豊臣秀頼と淀を自害させ、豊臣家を滅亡させてしまいます。

関が原の後家康は、天皇より征夷大将軍を任じられ江戸幕府を開きます。ここで国家の実際の統治者は将軍の家康で、君主は天皇という二重体制が始まります。これまで日本の統治体制は天皇家を中心とした血縁氏族に占有されており将軍職といえども例外ではありません。血縁でもない豪族上がりの大名が将軍になるなど前例が無く、家康は自らを源姓を名乗ったとも言われます。しかも彼らは必要であれば自らの親や子どもの首さえもとるほどの乱暴ものです。

主人の首や直系親族を死に追い詰める冷酷な家臣がなぜ将軍になどなれるのか?その正統性を家康は朱子学に求めたと言います。

(以下引用http://toron.pepper.jp/jp/middle/syndr/jpjugaku.htm [1]

「『湯武放伐』とは『臣下が悪王を殺して権力を奪う』ということである。(略)家康は、駿府で林羅山と湯武放伐の是非について問答した。このときの林羅山の答えは、「殷の湯王が夏の桀王を放ち、周の武王が殷の紂王を伐ったのは、天の命令に応じたのである。…(略)…放伐(臣が主君を殺すこと)を肯定すれば、日本ではどういうことになるのか。まず、大名は幕府を放伐してもよい、ということになる。(略)ゆえに、幕府はつねに「戦時警備体制」をとった。幕府体制は、戦国時代のそれを、そのまま凍結したものである。」
また、

「朝敵(天皇の敵)に成ることは規範上、許されないこととなった。(略)それだから、将軍慶喜は圧倒的に強大な軍事力を擁しつつも、朝敵と呼ばれることをおそれて、ただひたすら恭順した。諸大名も朝敵になることを何よりも嫌った。」

戦国大名といえどもその正統性は、最後は天皇(天)の勅命によらなければなりません。幾ら前王を討とうとも天が認めればよい、というのが彼らの正当化の理屈です。この天命を是とするのが湯武放伐であり、朱子学であるというのです。

しかし、

「湯武放伐を是とするか否とするか。朱子学者も、儒教最大のこの問題を解決していない。(略)『「天照大神の御子孫が、神代以来、連綿として君臨し給い、乱臣賊子が現われず、革命を見ない」』と山鹿素行のように「日本の天子は一姓の天子」として湯武放伐を否定してしまうものまで出る始末です。

なぜ家康は朱子学を国学としたのか?それは自らの正統性を証明する為です。ではなぜ、将軍家や多くの藩士たちはその後も朱子学を学び続けたのか?答えは恐らく、徳川将軍家が大政奉還して政治の舞台から退く討幕運動への論理的可能性を同じく有しているから、ということだろうと思います。当時の学問とはこのように政治課題への根拠であったのです。
天皇ではない大名たちは何時徳川家を放伐しても構わない、これを是としなければ豊臣を放伐した自身も許されないことになる。こうしたジレンマが、国内の統合圧力となって当時の将軍家に大きく圧し掛かっていたのだと思います。

終わりに朱子学のもう一つ別の見方を参照しておきたいと思います。

(以下引用http://toron.pepper.jp/jp/middle/syndr/jpsyushi.html [2]

「日本はがんらい武家社会で、科挙と言うような筆記試験で人材を登用する制度はいかんともなじまない。中国の朱子学を支えたのは、試験で選んだ官僚を配置する郡県制度のメカニズムであった。(略)幕府各藩の一般教養部門は四書を柱とした朱子学が担当したが、思想界の活発な先端的領域おいて、それはほとんどたいした力を発揮しなかった。それどころか、十七世紀という非常に早い時期に、山鹿素行、伊藤仁斎、やや遅れて荻生徂徠らによって、旗幟鮮明な反朱子学が唱えられた。(略)ことに中国古代の聖人、堯舜時代を「先王の道」として理想化した徂徠は、秦の始皇帝が強力な中央集権国家を作って、封建社会を壊してから後の中国に、もはや高い理想を抱いていなかった。「先王の道」は各地方にいる世襲の大名がそれぞれの地域の人民と密接な接触をもつという体制、中国語の原義でいう「封建」の体制上に成り立つものである。始皇帝はそれを「郡権」の体制に改悪した。中央政府から派遣された官僚が地方官庁となる体制では、「先王」の道は成り立たず、実のない世間風の飾りと成り果てる。(略)じつは徳川の封建時代こそ、各地方にいる世襲の大名がよく天下を治め、地域の人民と恩愛の情を交わしていて、「先王の道」の再現ではないかという考えが徂徠にあった。中華崇拝者とみられる彼にして、じつは儒教朱子学の弊害をよく見ていた。海の向こうの大陸は朝鮮半島を含め、日本とは異なる文明に属し、荒廃した闇を予感させている。東海に浮かぶこの国からは聖人が出ない(『学則』一)とまで言っていた彼が唐以後の中国にじつは期待を抱いていなかった。これは驚くべき逆説である。」

政権の正統性にせよ、試験への効用にせよ、単に自分のためのものでしかないお仕着せの学門は、何ら普通の人々の役には立たなかった、にも拘らず、統合階級にはこれを学ぶ(利用する)政治課題(圧力)があった、ということのようです。


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