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またか!Σ( ̄ロ ̄lll)10代 ~昭和30年代の事件~

前回の投稿 [1]に対する意見:「「貧困や相続に関係しない所謂短絡的な“親殺し”事件」というカテゴライズは、各事件についての詳細な検討が必要だと思います。」を受けて、過去を遡って、調べてみました。

今回は、昭和30年代の10代の“親殺し”の事件で、『事件史探求』 [2]から調べてみました。
(他にはなかなか事件をまとめたものはなかっただけに、『事件史探求』のようなサイトは非常にありがたい。)

見つかったのは、昭和31年3月の『長女・家族毒殺偽装心中事件』と昭和34年7月の『岩槻・家族7人殺人事件』の2件だけです。(因みに、昭和20年代にはこのサイトにはありませんでした。)

1件目の動機は、「扶養家族が多くては結婚の邪魔」になるということから、2件目は、「自分の嫌いな女房を押し付けられ別れたかった」というのと「生活は苦しかった」ということ。

1件目の犯行後は、犯行を否定。2件目は逃亡。

いずれも、短絡的とは言え犯行後のこと(:社会に対する影響)を考えている。

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長女・家族毒殺偽装心中事件 [2]
-経緯-
昭和31年3月9日午後8時45分頃、東京都江戸川区の巡回理容師・U子さん(当時46歳)の長女でメッキ工場勤務のれい子(当時19歳)が隣家(地主)に「お母さんや弟の様子がおかしい、一家心中したらしい」と駆け込んできた。
小松川署が現場に急行し捜査を開始した。U宅では、母親のU子さん、小学校一年生の三男(当時8歳)が絶命。工員の長男(当時17歳)と中学校二年生の次男(当時12歳)が苦しんでいたが病院に運ばれて間もなく死亡した。

小松川署は、れい子に状況を確認した。れい子の供述によると、夜8時過ぎに銭湯から戻ると母親のU子さんが「お前は飲まないでいいよ」といってジュースを弟たちと飲んだあと苦しみだしたと証言した。しかし、心中にしては遺書が無いこと、れい子の証言がチグハグで一貫性が無いことなどから、れい子を厳しく追及。深夜犯行を自供した。

-動機-
れい子は「扶養家族が多くては結婚の邪魔になると思いつめ、家族を殺しました」と供述した。れい子は前年の昭和30年の夏頃、母親の理髪店で東京都清掃局に勤める28歳の青年と出会った。れい子は一目惚れし二人は付き合い始めた。最近になって、れい子はこの青年に結婚を持ち出した。ところが青年は「扶養家族が多いところは、気苦労が多くてイヤだ」と断られてしまった。

そこで、れい子は家族を殺せば青年と結婚できると思い家族を殺すことを計画した。犯行当日、勤務先の工場から拾ってきた青酸ソーダをジュースに入れて家族に飲ませて殺害したのだった。
れい子は犯行が発覚しても顔色一つ変えず、留置されることがわかって初めて泣き出す異常さであったという。

岩槻・家族7人殺人事件 [2]

-経緯-
昭和34年7月22日午前1時30分頃、埼玉県岩槻市の農業・有山軍次郎さん(当時63歳)方から出火。焼け跡から軍次郎さんとその父・馬次郎さん(当時75歳)、息子の政男(当時24歳)の妻・Y子さん(当時28歳)、政男夫婦の長男(当時4歳)、次男(当時1歳)、三男(当時2ヶ月)、姪(当時10歳)の7人の焼死体が発見された。

埼玉県警と岩槻署は当初過失による出火と見ていたが、息子の政男が行方不明であること、焼死体に不審な点が見られることから殺人・放火の容疑で政男を全国指名手配した。

捜査本部が犯行前の政男の行動を調査した結果、21日の午前2時頃同市内の従弟宅に現れて、二階戸袋に向かって石を投げた。従弟の家族が雨戸を開けると軒下に政男が居て紙切れを置いて逃げた。従弟は、何だろうと思い一階に降りて紙切れを見ると「おれの家中焼き払ってやる」と書いてあった。

さらに、政男の妻の実家にも同様に投石するという不可思議な行動をとっていたことが判明。また、同夜油店からガソリン1缶を購入していることも判明した。これらの状況から犯人は政男とみて、付近の山狩りを行い行方を追った。

犯行当日の22日午後8時頃、政男は埼玉県越谷市の小料理屋に現れ、1時間程度飲食したあと突然外の車に向かって飛び出し、全治3週間の自殺未遂を起こす。飲食店主の連絡で病院に駆けつけた捜査本部が政男を確認し逮捕した。

-同情できるとした一審判決-
逮捕後の政男は「犯行の動機は家庭不和だ。自分の嫌いな女房を押し付けられ別れたかった」と供述した。確かに、有山家の家庭関係は複雑で、叔父の馬次郎さんに子供がいなかったため実弟で政男の父・軍次郎さんが養子となった。しかし、妻が早くに他界したため女手がないことから一人息子の政男に見合い結婚させた。が、相手のY子さんは4歳年上のうえに近所の人と挨拶ができないほどの知能程度であった。
また、10歳になる姪は政男の姉が再婚する際、同家に置いていった子供で生活は苦しかった。

政男は次第に生きることに意欲を無くす。犯行一ヶ月前には田んぼを無断で売り、その金でテレビを買ったことから父親に相当強く責められていた。このことも犯行に至るきっかけとなった。

公判は、検察側の死刑求刑に対して一審の浦和地裁は昭和35年2月25日「一面から言えば彼も心無い親の犠牲とはいえないだろうか」と無期懲役の判決を言い渡した。が、検察側の控訴で二審は一審判決を破棄して死刑判決。昭和38年4月30日最高裁は政男の上告を棄却。死刑が確定した。

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