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戦後教育のおかしな教育改革

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戦後教育の問題性がよく取り上げられるが、どこに問題があったのか探って行きたいと思います。

戦後、GHQ占領下の元、日本国憲法の施行と同時期(1947年)にアメリカ教育使節団の提言 [1]により教育の改革が行われ、教育基本法が施行される。

教育基本法は、GHQとの協議・意見交換で、戦前の国家主義的教育につながるような文言の削除を求められた箇所はあるにしても一貫して日本人の手で自主的・自律的に作成されている。(参考)教育基本法Q&A [2]

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改めて法文を見ていくと、
現行教育基本法 [3]より

<前文>
 われらは、さきに日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貞献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、心理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。

第1条(教育の目的)
 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

第2条(教育の方針)
 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現させなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

・・・(第11条まで)

民主的”“平和”“福祉”“個人の尊厳”など
るいネットで言うところの旧観念 [4](価値観や現実を否定して頭の中だけで充足を得る観念)が溢れている一方で、

第1条の“国家及び社会の形成者として”や
第2条の“実際生活に即し
など、現在では、分断されてしまっているが、当時は、社会や実生活と繋がる教育を目指していたものと思われる。

実際、戦後復興並びに経済成長期を迎え、国を上げて豊かさ実現に向かっていた時代で、上記のような旧観念よりも“豊かさ実現へ向けて(実利レベルで)”の教育が中心軸となっていたのではないだろうか。

しかし、1970年代:豊かさが実現されると、収束先を見失い、
1980年代:学校が荒廃しだし、『家庭内暴力』『校内暴力』『非行』『いじめ』
1990年代:『学級崩壊』『不登校』『ひきこもり』『幼児虐待』『凶悪犯罪』『精神荒廃』

と諸問題が次々と起こりだす。

対して、教育方針(教育理念)は、
1980年代:『個性主義』『新しい学力観』『自己教育力』
1990年代:『生きる力』『自分探し』『自己実現』『心の教育』

中でも1997年の
教育は『自分探しの旅』を扶ける営みであるとして、一人一人が自己実現を目指す過程に的確な援助を与えることが教育の使命であるとの基本理念
は、何をどうしようとしているのか意味不明。教育方針を完全に見失っている。

遡って、1966年の
『期待される人間像』
①個人として・・・自由であること
②家庭人として・・・家庭を愛の場とすること

を見ると、旧観念を下敷きにした教育方針の問題性の片鱗が伺える。

そして、この頃から、国家としての全体課題が個人課題へとずり落ちていく。

引用抜粋先:文部科学省 中央教育審議会 義務教育特別部会第1回資料 [5]より

教育基本法が元になっているとは言え、文部科学省の政策は、教育の諸問題を引き起こすように教育方針を打ち出しているように思える。
そして、教育基本法で謳われている“自由”“平等”“個人”といった旧観念がいかに、諸問題の発端となっているかを実証している。
 
現状は原因分析をろくに行わず、聞こえのいい表層的な言葉で飾っているだけに過ぎない。

 実現しない、むしろ現状を悪化させている旧観念を捨て、現実を直視し、なんで諸問題が起こるのか?どうすればいいのか?を追求していく必要がある。

近年の状況については、当ブログで
 “ 学校ってどうなってるの? ” で検索していただけると、
いろんな角度(視点)から追求されています。ご参考に。

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