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学校ってどうなってるの?19 ~昔の先生と今の先生

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「学校ってどうなってるの?15」 [1] では、 「子供が好き」で教師になるのは自己中ではないか?と提起しましたが、現在の先生の在り様を理解する上で、昔の先生はどうだったのか?について考えてみたいと思います。
“昔の先生”っていうと非常に立派な人ばかりだったという印象がありますが、どうなんでしょうかね?

因みに“昔の先生”・・・で、ぱっと思いついたのが夏目漱石の「坊っちゃん」です。(作者の明治28年~29年の体験を下敷きに書かれた作品)

>坊っちゃんは、校長には狸、教頭には赤シャツ、画学の教師は野だいこ、英語の教師はうらなり、数学の主任教師には山嵐と、さっそく綽名を付けてやる。(Wikipediaより)

・・・他にもマドンナなどが登場しますが、当時の先生はとても個性豊かだったんですね。

“昔の先生”で色々探してみたのですが、神戸女学院大学文学部総合文化学科内田樹教授の『下流志向』 [2]に、面白い分析がありました。

○昔の先生~師弟関係の力学

いつ頃の“昔”かというと、昭和3年・・・小豆島を舞台にした物語 『二十四の瞳』を題材に分析されています。
私なりの解釈も加えつつ紹介してみると・・・

・主人公の大石先生は、女学校を出たばかりの新米教師で、教科書を教えるくらいはできるが、子供に相談されてもろくに受け答えもできない、現在の判断軸からすれば、 「全然教師としての責任を果たせない」先生。

・しかし、子供達は全身を委ねるようにぶつかってゆき、先生も受け止めることはできないが、とにかく必至で受け止めようとする。・・・信頼感につながる。

・大石先生のように、決して立派とは言えないような先生は、戦前の日本には一杯いたし、ちゃんと教師として機能していた。(当時は戦中に教師不足で採用された先生や、復員してきた人など、「なんでこんな人が!」といった先生が大勢いた・・・がちゃんと機能していた。)

・それは、 個人の力量の問題ではなく、制度として機能していた から。

・その制度とは、 “師弟関係の力学”

・そして、“師弟関係の力学”の本質は、 “自分の能力を無限に超える存在(=“師”)とつながっているという感覚”
 

・この感覚を有している人は、常に心が自分とは違うもの、自分を超えるものに向けて、外部へ続く「ドア」が開かれている。

⇒だから、決してまだ立派でない先生でも、何かを掴もうとするし、先生も伝えようとする。

⇒また、この感覚は “学ぶ”という謙虚な姿勢に繋がっており、“師”からこれを受け継がれることで、生涯、“自分を超えるもの”から学んでいけるし、伝えていける。・・・大きな連鎖の一部。

○今の先生~教育の「等価交換」化

・前提として、この「ドア」は閉じられてしまった・・・自己完結した「近代的自我」 として自立してしまっている。

・その背後にあるのは 「市場原理」 。

・そして、その結果教育は「等価交換」的なものになってしまった。

・・・つまり、まず、教師自身の卓越した教育技術こそ重要。なぜなら、教師は、期待通りの“教育サービス”を提供すべき(授業料や費やす時間とサービスの等価交換)存在であり、提供できれば子供や親(=消費者)からの非難や叱責を免れることができる。
但し、叱責を免れるだけだ、決して尊敬されたりはしない。
自分を犠牲にして頑張っても、何か一つでも失敗すれば、親からの罵声を覚悟しなければならない。(己を犠牲にして頑張っているのに、ちょっした問題から毎週PTAに吊るし上げられる金八先生)

・ここでは、「良い教師」たる能力が、実定的、計量的にリスト化されることで、「この項目が欠格であるから、良い教師ではない」と、引き算の評価をするようになる。
・・・このような捉え方では「良い教師」は一人もいなくなる。

・また、教師になる際いは、「その職業を通じて何か社会の役に立ちたい」という適性は二の次になり、ペーパーテストの成績が良い人ばかりが教師になる。・・・競争に勝ったものが社会的に有利なポジションを占めることが許されるという競争原理に同意しないと教師になれない

・こうした制度の下での教師は、非常に均質性が高く
(⇔昔は色々な人がいた・・・実はその方が上手くいく)、支配的な価値観(=旧観念)に従順な人たち多数派を占めつつある。

○どうする?

・教育の再構築とは、この師弟関係の力動性、開放性を回復/することから始めるしかない。

・・・と、教育の混乱の原因を「市場原理」「近代的自我」「等価交換」あたりに求めており、非常に参考になりました。
ただ、この“師弟関係”については、今後は昔のそれとは違った意味合いをもってくるとも思いました。

かつて教育制度が成立していた背景にあるもの・・・それは、一つは貧困→活力源としての「私権の強制圧力」(私権欠乏)
そして、もう一つはこれらを背景にした「序列規範」であり、これこそが“師弟関係の力学”の本質だと思われます。(私権=お金、身分、序列=身分序列・・・先生と生徒、親と子、政治家と大衆・・・)

しかし、1970年頃を境に貧困が消滅した以上、私権圧力は衰弱し、結果、勉強する意味(活力)は失われてしまった。また、結果序列原理はガタガタとなり、従来の師弟関係は成立し得なくなった。

教育を再生する上でも、それに代わる活力源は不可欠であり、また、“学び”の前提である(自我を抑制する)「自分の能力を無限に超える存在」も不可欠であると思います。

それは何か?

一つは、「共認圧力」ではないかと思います。
みんなで学校の抱える問題を共認し、解決や実現のための役割を共認し、みんなで方針や能力を評価し、新たな規範を作り出す。みんなの評価によって生まれたリーダーがある意味“師”となってゆく。
そこでは、 みんなの「期待」こそが圧力源=活力源となる。

・・・つまり、 “自分を超える”存在としての「みんな」(「集団」「社会」)や「期待」がある
(実際、先生同士や先生と校長、更には子供や父兄、地域を巻き込んで、みんなで問題を解決し、方向を見出そうとしている学校は、活力が上昇しつつあります。)

もう一つ“自分を超える”ものとして、「支配的な価値観」に代わる、事実の認識、とりわけ「自然の摂理」があると思います。
教育の目的は、もはや私権の追求(金を稼いで豊かになること)ではなく、ガタガタの社会を立て直してゆく“答え”を出してゆける能力を身につけること。
そのためには、固定観念に囚われることなく、事実を素直に捉える力や、その結果明らかになる厳然たる事実の集大成たる「自然の摂理」を理解することも不可欠になってくると思います。

(kota)

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