親権という言葉は、離婚訴訟のときによく登場するが、
実は虐待を受けている子供を救おうとした時に大きな壁になっている。
いまやあたりまえのように使われている、親権という観念の病理性を明らかにしてみたい。
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以下は、親権についての裁判所の判例である。:札幌弁護士会のサイトからの引用(リンク [1])
「この種事案においては、子の福祉を脅かすとされる親権者にどうかかわるかが重要な課題となる。親権の権利性のみを主張し義務性を理解しない当事者の場合が多いことは事実であるが、そのような当事者に対しても、親権に介入し、公権力を行使する以上は、その必要性を説明したり当事者の意向や弁解を聴く機会を持つなどして、積極的に当事者と向き合う必要があるのではないかと思われる。・・・・家裁においても然りだが、困難当事者あるいは解決困難な事例であればこそ、打つべき手をきちんと打ちつつ誠実に対応するすることが求められてくるのだと思われる。少なくとも子やその関係者からの情報だけで虐待と決めつけるわけにはいかないし、また、紛糾を避けるために極力親権者との対応を回避したりすればかえって紛糾を招きかねないだけでなく、たとえ子の 保護がかなったとしても、その紛糾のしわよせを先々子自身が背負わざるをえないこと にもなりかねない。」
要するに、親権というものはとても大きな?ものだから、虐待の疑いがあってもむやみに剥奪できないと言っている。
このような裁判所の見解に対して札幌弁護士会の投稿者は以下のように述べる。
>裁判所は往々にして、この問題を「大人同士の利害の調整」と見てしまい、「親としての権利を制約することになるから、虐待者である親の審尋を行い意向や弁解を聴く必要がある」というのだが、「親としての権利」というのはこの場合何なのか判然としない。
>そもそも子どもに対する親の「権利」などというものはない。親のやっていることが主観的にどんなに善意であっても、客観的に子どもの生命・身体・心の発達を侵害する場合にはそれは親の子どもに対する「債務不履行」であるから、その効果として親権喪失になるだけである
>そのためにはいろいろなハードルがあるだろうが、何よりも家庭裁判所自身が意識改革をして「親権の神話」から脱却することが鍵であると思う。
いわゆる「親権」という観念に対する見解には基本的に賛同できる。
>そもそも子供に対する親の「権利」などというものはない。とは、まさにその通りだろう。
少し昔の日本社会を振り返ると、子供は「村の子供」だった。村の人々みんなの期待を受けて子供たちは育った。だから、周りの親だけでなく、年長の子供たちもいっしょうけんめい面倒を見た。
子供をきちんと育てられない親がいると周りが放って置かない。
そして、どうしても親の勤めが果たせなければ、周りが判断して子供を養育するところがきめられた。
現代においても同じはずだ。
「自分の子供」という観念が邪魔をして見えなくなっているが、子供は次代を担う人材として育つことがみんなから期待されているはずだ。
さしあたり、子供を養育する役割を親が担うことが期待されている わけだが、その能力・資格がなければ他の場に養育を委ねなければならない だろう。何より、子供にとってもその方が幸せだろう。
親権などという、個人主義・人権思想に基づいた観念を後生大事に奉ることよりも、どのようにして次代を担う人材を養育したらよいかという観点で考えることが大事だろう。
byわっと