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いじめ問題の視点

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いじめ問題(自殺)が後を絶ちません。当然裁判なども年々増えていくようです。
http://www.jca.apc.org/praca/takeda/sosyojirei.htm [1]
しかし、これらを幾ら眺めても何か釈然としないものが残るのは私だけでしょうか?

 

裁判となれば、原告も被告も自らの主張の正当性を述べるのは当然です。そして、裁判官はその主張を聞き比べていつかは判決を下さなければなりません。確かにその過程で、いろいろな事実が浮かび上がってもくるでしょう。特にご遺族などは、やはり事実を知りたいと切望するでしょうし、裁判にでもしなければ関係者が多くを語りたがらないのも事実です。

しかし、先の事例(判例)などやこれに触れる論調に、どうしても違和感を感じてもしまうのです。それは何かと考え、様々なサイトやブログを巡ってみましたが、一向にその違和感が消え去ることはありませんでした。それは…。

やはりそのどれもが、『大人の視点』でしかないからなのではなかろうかと思い始めています。

例えば裁判などでは、「自殺といじめの相関が認定されるか?」「自殺の予見は可能だったか?」「学校や教師の安全配慮義務に違反は無かったか?」といったことが専らの争点になっているようです。しかし、そのことでいじめや自殺の原因がどの程度明らかになるのでしょうか?その原因は、裁判が「大人の制度」であるが故にいきなり当事者である「子ども」を裁くのに馴染まない、ということであるように思います。

と、ここまで書いてきて、そんなことは当たり前じゃないか!!ということに気づきました。

そもそも子どもたちは、子どもであるが故にいろいろな問題を起こすのであり、その中には事故や傷つけることの度合いが大人の予想を軽く超えてしまうことも多々あるはずです。この「大人の予想だにしない」ことが、子どもたちへの大人の対処を躊躇させるのだと言えますが、大人がそう思った途端、子どもと言う存在が遠くなる(=見えなくなる)のも事実です。

というわけで、いじめにはやはり「子どもの生の声」が不可欠と思うのでした。

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