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メディアがあおる学校不信・教師不信

学校や教師への不信感が社会に広まっている原因に、マスコミの報道の姿勢や内容によるところが大きい。

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そんなマスコミ報道の問題に関する、東京大学大学院教授の広田照幸氏のコメントを、ブログ『覚え書き』 [1]さんの記事『教育改革の前に』 [2]から紹介します。

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教育改革の前に 学校・教師を信じよう  現場の予算・人を充実させよ 広田 照幸

 今の社会には、学校や教師への不信感がうず巻いている。短慮な教育改革が性急に進められている背景には、そういう世間の不信感がある。しかし、不信感に基づく改革は、決して教育をよりよいものにはしない。

【メディアがあおる不信】

 学校や教師への不信感をあおり立てる情報がメディアで大量に流れるようになっのは、落ちこぼれや管理教育が注目を浴びた1970年代のことだった。メディアにとっては新ジャンルの「社会ネタ」だった。その後、「ネタ」は次々と変化してきた。校内暴力が沈静化したら、次はいじめや体罰がクローズアップされ、一通り報道・論評されつくすと、次は校則問題へ、といった具合である。確かに、メディア報道を契機に事態が改善した部分はあった。体罰はずいぶん減ったし、理不尽な校則の多くは姿を消した。

だが、そうした、学校や教師を非難する情報の氾濫が、二つの困った事態を生んでいる。

 一つには、少数の事件や事例がセンセーショナルにとりあげられることで、大半の学校がそれなりにうまくやっていることや、ほとんどの教師がまじめで職務意識に溢れていることなどが、世間に人々の目にみえなくなっている、ということである。大半の教師は、熱心で誠実である。きちんと学力がつく丁寧な指導に力を入れ、子どもが抱える問題とこまめにつき合おうとしている。ところがそれらは、「よいエピソード」として個々の生徒が個人的に体験するだけで、地域で話題になることもないし、メディアで取りあげられることもないメディアが注目するのは、信じられないような学校事件や、とんでもない不祥事教員ばかりである。地域の人たちは、そういうニュースを通して、「今の学校は・・・・」という不信感を抱く。地道に「よりよい教育」を手探りしている目の前の学校や教師には目を向けないまま、多くの人は今の学校を語っているのだ。

 もう一つは、教育行政が世論に応えて「何か改善策を」とやるたびに、学校現場は余裕がなくなっていく、という悪循環にはまっていることである。特に、授業の工夫や子どもと向きあうための時間的余裕がなくなってきている。1980年代以降、学校は、ろくに教員も増員されないまま、次々と「改善」「改革」のなのもとで、新しい試みの指示が上から降ってくるようになった。その結果、教師の職務は、水ぶくれのように多方面で不定型なものへと広がってきてしまった。会議や研修や書類作りの仕事が増えた。トラブルや苦情への対処の時間も増えた。教育活動そのものではなく、評価資料作成や評価のための時間も増えた。学校選択制のもとでは、パンフレットを作って「営業」に出かける必要も生まれてきた。見栄えの良い新規の事業でないと予算がつかないしくみが、そうした職務の水ぶくれに拍車をかけている。

【教師が燃え尽きる危険】

 ここ数年は、学校や教師への不信感をベースにしたシステムが全面化されようとしている。学校選択制度、学校の外部評価、教員免許の更新制、バウチャー制である。個々の学校や個々の教員を評価し、チェックする。学校や教員を不安にさらすことで、否応なしに彼らをもっと働かせようとするしくみだ。まじめで熱心な教師ほど、限界まで追いつめられる。近年の教員の精神疾患の増加は、おそらくその現れである。このままの方向では、さらに大量の教師がバーン・アウト(燃え尽き)してしまいかねない。

 金をかけずに非難や恫喝で人を動かすシステムは、一時的に高い成果を挙げたとしても、長持ちはしない。「学校や教師を信用してみる」方向での改革が必要なのではないか。まずはたっぷりお金を出してほしい。ひも付きでない形で予算と人員を充実させ、教師に十分な時間的余裕を与えてみる。「教材検討の時間でも、子どもと向き合う時間でも、自由に工夫してみろ」と。いじめや不登校など、日常の関係レベルでの問題を減らすためにもそれが必要だ。日本の教師の力量をもっと信用して、時間的な余裕を与える条件整備が進められねばならない。
(2.1.朝日新聞夕刊文化欄)

非難するだけ、言いっぱなしのマスコミ報道は、目先の誤魔化し報道でしかありません。マスコミの報道に踊らされることなく、教育現場での事実を明らかにする必要を感じます。

また一方では、現状のまま「学校や教師を信用してみる」だけでは解決しないようにも思います。子供たちの教育は『学校や教師、各家庭がすべきもの』というこれまでの枠組みを取っ払い、改めて子供たちにとって必要な教育とは何かを考える必要があると思います。(@さいこう)

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