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いじめを考える。 ~昔の「子ども世界」~70年代

>遊びという明確な課題があって仲間意識が生まれていたのだと思います。それに廻りには評価を与える仲間がいたから、大人の世界とは違う、手応えのある子供の世界が存在していたのだとおもいます。
昔はどうだったか…?いじめに関するサイト「日本の子どもたち」http://www.jca.apc.org/praca/takeda/index.html [1]を見ながら、自分の昔の頃を考えてみました。

正確には75年頃が中学生だったので、その頃のことになりますが、正直深刻な「いじめ」の記憶はありません。しかし、よくよく思い出してみると…。

その頃は毎日遊んでばかりいました。小学校の級友は単純に「遊び仲間」で、学校の授業の合間や学校が終わった近所の遊び場で、毎日お腹が減って、どうしても晩御飯を食べなければならなくなる時間まで、いつもクラスの友達10数人と遊び続けていました。思い返せば、そうやって遊んでいる中に「いじめ」らしきものもありました。

子どもと言えど、何となく「序列」らしきものが存在し、力の強いやつ、運動の得意なやつは常に上位に位置して、何となくトロい奴、すぐ泣く奴などは、自然といつもからかわれたり、服を汚されたり、水溜りに落とされたり、物を隠されたり、いろいろしていたことを思い出しました。

この序列(順位)は、一度決まってしまうと殆ど変わることなく、「いじめ」られる奴は来る日も来る日も、何らかの悪さを受けていました。草野球をやっているかと思えば、いつの間にか泥のボールをぶつけられていたり、そうしたことを一通りやってしまうと又野球を始めたり…。時々度が過ぎて、泣いて帰ったそのいじめられっ子が、親や先生にチクッたり、そのことで、又教室の後ろの方で「袋」にしてみたり…。

でもそれは、当時の子どもたちにとって、「いじめ」という意識ではなかった様に思います(こう書いてしまうと単なる自己正当化に聞こえてしまいますが、敢えてもう少し考えて見ます)。

全て友達との遊びの中で起こること、結局は「遊び仲間」でしたし、全てが「子どもの世界」の出来事で終われていました。ただ、そこには、金を巻き上げたり、骨を折るなどの重い怪我を負わせることは、いわゆる「シャレにならない」のでしないようにしていたと思います。そうした意味で、「いじめではなく遊びだった」という感覚が強くあります。

先のサイトでも「(いじめを)ケンカや遊びと混同しないでください。」と書かれています。混同するのではなく、何が違うのかをはっきりさせるべきだと思います。少なくとも75年より以前の子どもたちは、普通に学校も友達との遊びも楽しかったのだと思います。

さて、一体今のいじめと何が違うのでしょう

今のいじめ(というより、そうした問題を孕む子どもたちの関係)に「楽しさ」など微塵もありません。自殺までが当たり前になってきたのだから当然です。要するに「遊びでは済まない」「遊びとは全く違う」のです。でも、遊んでばかりいてそれが楽しかった昔の子どもたちと、今の子どもたちとでは、本当に何が違うのでしょうか そのことを考えるために、当時がどういう時代だったか、簡単に押えて一旦、終わりにしたいと思います。

70年以前に高度経済成長を経験した日本は、現実に飢え死にするほどの貧困は既になくなっていました。多少の格差や貧困は残るものの、テレビがカラーになり、ステレオ装置が来たり、クーラーが据えつけられ、自家用車が手に入るほどに豊かだったと言えます。その様な物欲が実現していく様は、子どもたちにとっても学歴→より豊かな生活を意識させはしましたが、それとて高校受験を迎える頃のこと、それ以前は先の「子どもの世界」がただ広がっていて、将来の豊かさへのイメージに大きな違和感は感じなかった、と言えます。

そしてもっとも感じることは、そうした世界観がどの子にも或いは親にも同じように広がっていたであろうと言うことです。そうした中、子どもたちは、一日をどう過ごすか迷うことは有りませんでした。多少の諍いはあっても、又明日も同じ仲間たちで暗くなるまで遊ぶだけだった、それが一番「楽しかった」のです。

 

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