- 感謝の心を育むには - http://web.kansya.jp.net/blog -

「仲間絶対」の意味~なんで些細なことで死んでしまうのか?

Posted By kota On 2007年2月21日 @ 1:44 AM In 子どもたち、若者たちの意識潮流,心の欠陥 | 6 Comments

%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%B0%E3%82%89.jpg

tennsi21さん、saitoさんの若い頃の共認充足の漂う“遊び”体験、yukarinさんの深刻な“いじめ”体験、そして、hoop200さんの分析を受け、一体昔と今の“いじめ”は何が違うのか?について考えてみました。

まずはクリックよろしく

■昔と今のいじめの違い(現象事実)

◎昔のいじめとは、“遊び”の一貫であり、いかにみんなで楽しく遊ぶかが課題だった。

・いじめると言っても、あくまでも遊びだから、「金をとる」とか暴力でけがをさせる=相手を傷つけることはしなかった。(誤って傷つけた場合は気まずい思い)
・その背景には、さすがに犯罪はいけないという、当然の規範意識もあった。(社会=大人世界ルール)また、相手の気持ちを察する共認回路もちゃんと作動していた。
「いかに楽しく遊ぶか?」という課題を通じ、暗黙に子供世界のルールを形成。(例えば、“チクリ”は子供世界のルール違反)
・また、大人(親や先生)の圧力(→怖い)もあった。
・そして、いじめの中身も、ある種の原始的な力の序列に従っており、要するに、腕力のあるガキ大将が、弱いものや貧乏な子などをいじめる、あるいは逆に裕福であるとか成績が良い子をいじめるなど、理由は単純明快なもので、いじめる側もされる側も、ある意味すっきりしていた。
・・・だから、いじめも含め、当時の子供世界は共認充足に充ちていた。(今も良き昔話としてなつかしく語り合える)

■それに対し、今のいじめはどうか?

・「自己中化」が進行し、金銭であれ、暴力であれ、相手を傷つけることも平気。「日本の子どもたち」 [1]からは1980年代より凶悪化、非人間化している様が窺える)
・その背景には、私権圧力の衰弱による規範の崩壊がある。(社会=大人世界のルール崩壊
・密室過程≒母親の囲い込み、ゲーム等個的な遊びの拡大、遊び環境の悪化(遊び場減少、犯罪・変質者の増加)などにより、子供世界の課題であった“遊び”が衰退。
⇒みんなで規範(ルール)を作る経験ができなくなった。

・また、今や“答えを出せない”大人の力の基盤は衰弱し、子供に対する圧力足りえなくなった。(それどころか過保護化→自己中化の温床に)
・そして、いじめの中身はと言えば、力があるとか、頭がイイとか、カッコイイとか、序列原理時代ならいじめる側になっただあろう要素も、“目立つ”という一点で、逆にいじめの対象になり得る。当然従来からの貧乏や背が低い、黒い、暗い、自己中・・・等も“目立つ”という意味でいじめの理由となる可能性をもっており、基準は非常に曖昧。結果、“極力目立ったり孤立しないよう周りに気を遣い、周りに合せる”という意識(=期待封鎖)が生まれる。

■この違いの本質は何か?

◎ポイントは、「課題、規範(ルール)、評価軸の喪失」及び「自己中化」

昔のいじめは「遊び」というみんなの“課題”であり(課題を共有しているから基本的にお互いに肯定視)、かついじめの原因となる「序列」=“評価軸”は、明快かつ受け止めるしかない現実。
また、例えば「犯罪はダメ」という“大人世界のルール”も、みんなで作り出す“子供世界のルール”も明快であるから、それに従って行動すれば良いので迷いはない。
つまり、“課題”も“規範”も“評価”も明快であり、この遊び世界の中では“いじめる側”“いじめられる側”も一種の“役割”であるため、(もちろんいじめられるのは嫌だろうが)本質的に不安は無かったと思われる。

しかし、現在は、上記のように、“遊びという課題”から遠ざけられ、従って“子供世界のルール”を知らず、“大人世界のルール”も無い収束不全状態。しかも私権序列に代わる評価軸もない。自己中化が進んでいるから相手の気持ちもよくわからない・・・つまり、同化すべき対象が一切ない。
かつ心底では私権の衰弱⇒本源収束・仲間収束しはじめている。
・・・そんな不安定な子供達が学校という空間に強制的に閉じ込められたらどうなるか?

各自の意識としては、「自分の立ち位置(=役割)どこなのか?」「自分は一体どう思われているのか?」果ては「自分の存在理由は?」・・・と、周りの評価が気になって仕方ない・・・つまり、周り=閉じられた仲間空間での評価圧力が絶対化してゆく。こうして、ことさら「仲間が大事」という表層的な意識が作り出されるが、本質は「自分発」の不安意識が原点であり、もはや「仲間絶対の“強制圧力”」と化している。
そんな中で、潜在的な共認欠乏(自分達で何かを作り出したい)によって生み出されたのが、“遊びに代わる課題”としての「いじめ」なのではないだろうか?

「仲間が絶対」だから、自分が下手に目立ってみんな課題であるいじめる側からはじかれぬよう、絶えず周りに気を遣い(→すぐ疲れる)、可愛そうだと思いつつもいじめ側に参加する。(そもそも自分を守るためにいじめるわけだから、自分発であり、本当に可愛そうと思っているかは疑わしい)
はじめは嫌々かもしれないが、「いじめ」という課題を共認した以上、共認圧力が作用し、かつて遊びを盛り上げたように、どんどんいじめもエスカレートしてゆく。(集団の目的のためにとことん排他的に・・・自己中集団化)
そして、究極のいじめとは、相手が最も嫌なこと・・・つまり、絶対化した仲間共認の輪から追い出すこと=“シカト”すること。

「日本の子どもたち」 [1]によれば、最近は「からかわれた」「通せんぼされた」「ズボンを下ろされた」・・・その程度で?それっていじめ?といった些細なことで自殺していっている。

しかし、上記のように「仲間」が観念的に絶対化し、強制圧力化しているとすれば、どんなに些細なことでも、仲間空間で否定され、はじかれることは、存在を否定されるに等しいのではないかと思えてくる。

そういった意味で、今子供達が心底求めているのは、いじめに代わる真っ当な課題であり、それこそがいじめを無くしてゆく答えなのだと思う。

(kota)


Article printed from 感謝の心を育むには: http://web.kansya.jp.net/blog

URL to article: http://web.kansya.jp.net/blog/2007/02/145.html

URLs in this post:

[1] 「日本の子どもたち」: http://www.jca.apc.org/praca/takeda/list01.html

Copyright © 2013 感謝の心を育むには. All rights reserved.