いじめ、未履修、体罰、…など、最近は学校がやり玉に挙げられまくっている。
自己中な親が増え、自己中な子どもも増殖中。
その中で、唯一、家庭(親)だけがカヤの外だ。
かつては、子どもが悪さして教師から叱られたら、親が学校に謝りに行き、親も子どもを叱っていた。
ところが、今は全く逆だ。教師が子どもを叱ると「体罰」と訴えられかねない。
この逆転はいつ頃からはじまったのだろう?
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80年代に校内暴力が頻発したことがきっかけ のようだ。
~問題生徒を説得しようとしても、言うことを聞かなくなった。加えて世の中全体が生徒の人権尊重という流れに傾いていき、~問題のある子どもを前に教師が何もできなくなった。~
(東京新聞記事より [1])
学校教育法(1947)で「体罰をしてはならない」と定め、法務庁長官通達(1948)で体罰の具体的な基準を示すなど、現在の法的な規定は戦後すぐに出来上がった。これらは、現在まで存在しつづけているが、1970年代までは教師(学校)の方が子ども(家庭)よりも上位に見られていたから、たとえ体罰があっても問題視されることは少なかった。
1980年にマスコミで大々的に採り上げられはじめた校内暴力の特徴は教師に対する暴行が急増したこと。
特に、生活指導・生徒指導の担当教師たちが標的にされた。
そして、マスコミでは校内暴力の責任を取り上げはじめ、学校と教師をスケープゴートにしていった。
(リンク [2])
(リンク [3])
戦後すぐに定められた、学校教育法や法務庁通達の中身を象徴するキーワードは以下のようなものだ。
・児童生徒の人権尊重
・子どもの人間としての尊厳
・生徒の教育を受ける権利(学習権)
(1988年長野県教育委員会指導資料より [4])
上記の指導資料の11年後、1999年の大阪市教育委員会の指導資料 [5]では、教師や学校に対する体罰禁止の姿勢はより強化され、子どもの人権尊重などに加えて、以下のような考え方が前面に示されている。
・体罰は、教職員の指導力の弱さの表われ
・子ども一人一人の個性やよさを見抜き、子どもの可能性を伸ばす指導の方法や体制を確立することが必要
・体罰は、子どもの心の傷として長く残り、屈辱感・自虐感を持たせ、自尊感情を減退させる
・体罰は、子どもの学習への意欲や集中力の低下を引き起こす
・体罰は、周りの子どもの心にも悪影響を及ぼす
・体罰は、子どもや保護者からの信頼を失い教職員全体に対する不信感を増幅し、信頼を失う。学校に対する地域社会からの不満、不信感を生じさせる。
目先・場当たり的、自己保身的な姿勢が教育委員会から学校へと浸透されてきているように見える。
その結果が、下に見られるような学校の状況だ。
(データから見る日本の教育より [6])
昭和61年頃を底に、平成12年まで学校内の暴力行為件数は一貫して右肩上がりで、平成6年頃から急激に増加してきている。子どもの数が減る中でのこの増加ぶり。学級崩壊、いじめ、活力衰弱(学力低下)などの問題事象の蔓延・低年齢化は現在進行中だ。
一方、体罰ではないかと問題視され学校内で調査された件数の推移は以下の通り。
(文部科学省データ [7])
校内の暴力行為件数と教師による強い指導(「体罰ではないかと問題視されるような強い指導」)の件数は相関していると思われるが、平成8年以降、横ばいから減少傾向を見せているのはどう考えても不可思議だ。(小中高別で見ると、暴力行為・「体罰ではないか…」ともに中学校が群を抜いており、明らかに両者は相関している。)
これは教師・学校側の自粛によるもの と見て間違い無いだろう。
すなわち、学校側での指導姿勢がどんどん後退し、学校内での自己中は野放し状態になってきている。
学校に全ての責任をなすりつけてきた結果であり、ここでまた学校の責任を云々しても何の解決にもならないのは明らかだ。
いま進められようとしている教育改革は、80年代に力関係が逆転した逆コースで学校の教育力を再生しようとする、安直な目先の対策でしかない。
何も解決できなかったばかりか、事態を悪化させる方向に使われた「人権」、「個人」、「個性」などの価値観念を改めて問い直すことが必要だろう。
by わっと